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家族療法?



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障害福祉サービス事業所において、<<生活支援員>>として貧困状態にある50台男性の障害者と関わった。
就労継続支援を利用する利用者から「来月まで500円で過ごさなければならず、給料の前払いは出来ないか」と言う相談であった。

高齢の母親と二人暮らしであるその男性は、事業所を利用する前から繰り返し貧困状態に陥り、母親とともに近所に借金を繰り返していたようである。


 この相談は、結果的に<家族療法>として問題解決を行った。
息子は母親の老齢年金を頼りに生活し、母親は息子に依存する形で生活していたため、繰り返し貧困状態になっていたのである。

 受理面接を行った際は積極的傾聴を行い、本人が母親に依存している事に気づくよう、心理療法も取り入れつつ、シェーピング法を中心として、
まずは本人が安心して働けるようにするためには、認知症の症状が出ている母親を、高齢者施設へ入所出来る事を第一目標とし、母親とは一緒に住まない生活をする事として方向付けを行った。

最初は母親がかわいそうだ。と言う本人と、息子と一緒に生活したい。と言う母親の希望もあり、難航したが最終的には成長促進派家族療法として母親も息子も納得し、母親を高齢者施設へ入所する目標を達成した。
 

次に「生活困窮」とならないよう、「日常生活自立支援事業」につなげる事を目標とし、母親の日常生活自立支援事業を高齢者生活支援センターへ依頼し、本人へは「今までのプライドもあるでしょうし、男の人にとってお金の話しは一番されたく無い話しだとは思いますが・・・」と、日常生活自立支援事業への利用に向け方向付けを行った。

結果的には1ヶ月の時間を要したが、制度に結びつける事で「金銭管理」の利用が開始され、予備として「所内預金」を給料天引きで行っている。こうして10年以上も続いていた生活困窮の繰り返しは、歯止めがついた状態になった。

 次に、今までの赤字分の清算と言う目標を立て、現在もその目標達成に向けて支援を行っているが、あまり厳しく行ってしまうと、「何のために働いているんだ・・・」と言う心理的状態に陥ってしまう可能性もある事から、外発的モチベーションとして「今月上手くいったら、所内預金から3,000円出金し、何か好きな事をしましょう」と提案し、現在も支援が続いている。
 母親とは一緒に住めなくなってしまったものの、結果的には母親も現在高齢者施設で金銭管理を受けながら、自分の好きなものを購入出来るようになり、本人とは毎週末面会を通じて交流を保てている。
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アドボカシー?

アドボカシーの基本的な考え方は、

自らの権利を、自らの力だけでは正しく主張したりする事が難しいクライエントに対して行う代弁・擁護すると言う事である。





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本来、自分が受けられる公的扶助や、自分が主張したい事を主張出来なかった事を想像すると、
非常に歯がゆく、悲しい思いをするのではないだろうか。

そこで、介入の定義として
「あるものを改善する又は支援するために、状況に関わる事」
とされ、
実践介入の目的として「不平等・不公平であると言う事は、個人問題や社会問題にとどまらず、様々な危機に対応すると同時に、緊急時にも対応する実践介入が必要とされている」と考える。


よって、間接的介入における擁護活動であるアドボカシーには、

単にクライエントの意思を代弁するだけでなく、不平等(例えば、このクライエントは本来公的扶助が必要であるにも関わらず、受けられていない。)な事実を把握し、
クライエントに情報提供を行い、自己決定を援助し、生活と権利が守られるべきである。
と言う事が、クライエントに伝わるだけでも相当意義のある事では無いだろうか。

たとえ、クライエントが公的扶助の存在を知った上で、
『必要ない』と判断したとしても、クライエント自身に、人間として平等に生活する権利・制度がある。と言う事を認識してもらうだけでも意義のある事であり、

逆にクライエントが公的扶助を望み、援助が成立し、平等に生活が出来る様になった時には、
意義が倍増すると考えられる。

クライエントの自己決定を援助し、意思を代弁するためには、ソーシャルワーカー側の活動も必要であり、政治的過程へのはたらきかけも求められる場合がある。



『ケース・アドボカシー』とは、個人のクライエントを対象とした、
個人の権利や意思を守るために行われる物であり、本当は受ける事が出来るサービスや公的扶助などがあるにも関わらず、その事を知らなかったり、知っていてもどうしたら良いか解らない人たちに、適切な支援がなされるための介入である。


『クラス・アドボカシー(ユーズ・アドボカシー)』とは、特定の階層の人々を対象とした社会問題の犠牲者である人々に対して行われるものであり、他の地域に比べて著しく公的扶助やサービスが不足していたりする場合、行政にはたらきかけ、制度や政策の改善を求めるものである、



ソーシャルワーカーが政治的過程へのはたらきかけを求められる場合は、クラス・アドボカシーが多いのではないだろうか。




ヘヴァリッチ報告と欲求

日頃、福祉の現場で仕事をしていると、「社会福祉・福祉とは何だろうか」と感じる場面に遭遇する。








そもそも「福祉」とは、愛情・幸福・援助等を意味するものと考えるが、
充足の範囲については個人個人様々である。


 例えば4人家族が1つの部屋のみで生活している場合、個々の「人間らしく生きる空間」「プライベートな空間」を確保する事は難しい。
しかし、知人・家族又は行政等の援助や制度によって、過大な充足は『贅沢』になってしまう事から、
3部屋程度の市営住宅や間借り等が妥当ではないだろうかと感じるが、
実際に福祉の現場では「自分は2人家族だが、狭いのは嫌いだから4部屋必要だ」等と言う声も多く聞くため、
福祉制度や福祉の目的の充足の範囲については、どこまでが妥当か。と言う疑問も残る。


 社会福祉の目的としては、人間として最低限の保障・充足を受け生活を送るという制度的な目的と、
助け合い・思いやり・自分自身の価値の認識と言う周囲との関わりを目的としたものの、
2つの目的があるのではないだろうか。


社会生活上の基本的要求はこの2つの目的から生まれる場合が多いと感じる。

 ヘヴァリッジ報告5つのリスクにもあるように、人間は働きたい(自分自身の価値の認識)・住みたい(人間として最低限の保障)・お金を得たい(自己欲求)・健康でありたい(人間として生きたい)・知識が欲しい(周囲との関わり)・相談したいと言う欲求が出るのが自然である。

人間は基本的に欲が深いとは思うが、ヘヴァリッジの5つのリスクを参考に例を挙げ、

働けて、お金を得る事が出来、健康で知識も豊富な人が住む場所が無く相談できる相手もいない場合は、住む場所が欲しいと感じ、少し欲が出た時に相談できる相手や話す相手が欲しいと思うだろう。

また、他は全て揃っていても、その年代に応じた知識や自分に必要な知識が少ない場合には、生活する上で困る事が多い。

この知識が少ないと言う例は福祉サービスを利用する場合についても同様で、日常生活を送れているが「働く場所がない」と言う認識を持った人がいたとしたら、それは働く場所の存在を知らない場合も多くある。

 しかし、ヘヴァリッジのリスクとは反対に『労働』『経済』『健康』『知識』『住宅』がそろうと、最低限人間らしい生活が出来、次の欲求が出るまでに時間がかかり、その欲求は『贅沢』と分類する事が出来る。

 つまり、『生活に困っている』と言う事は、我が国においても外国においてもヘヴァリッジの5つのリスクが1つでも存在する場合といえるのではないだろうか。



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相談援助の面接場面


面接場面において重要な事としては、
「クライエントのペースに合わせた会話(相談・援助)」
「クライエントが本当は何を望んでいるのかをクライエント自身が気づけるような面接」
そして一番重要な「先入観を捨てる事」を挙げる。
 

面接中、「沈黙」の時間が発生する事があるが、この「沈黙」こそ
「クライエントのペースに合わせる」ためには最も大切であり、私自身職場で利用者と面談を行う際、
沈黙しやすいように雰囲気を作っている。





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私が勤める職場には様々な障害を持った人が、就労の場を求めて利用をしている。

利用者は、私たち職員に相談し、職員から言われた事を咀嚼し、飲み込み(理解し)、自分の言いたい事や考えと、職員からのアドバイスや考えが合っているか。自分でどこまで出来そうか。等様々な事を考えているため、その時間に「沈黙」が生じる。

沈黙の間に得られた利用者自身の回答を利用者が発し、それについてまた話す。

と言う事を繰り返し行う事が出来れば、自然とクライエントが訴えてきた内容が、自分のワガママや努力不足なのか・職員の支援不足なのかが見えてくる。



しかし、沈黙も無く行う面接は、クライエントがワーカーに言われた事を咀嚼・飲み込みが出来ないまま、話しがどんどん進んでしまうため、クライエントは「よく解らないまま終わった面接」と感じるだろう。

そして、この「ペースを合わせる面接」を行う事によって、「クライエントが本当に望むものは何か」をクライエント自身が気づく事にも繋がる。


 また、先入観を捨てる事により、今この瞬間目の前にいるクライエントは、何で困っているのか。
を受け入れやすくなる。

先入観を持ったまま面接を行うと、ワーカーは「それは、こうあるべき」「普通は・・・」「他の人は・・・」等とクライエントとの比較対象を作ってしまうことになり、今この瞬間目の前にいるクライエントを、「個別化」して見る事が難しくなる。

更には問題解決のための方法をクライエントとともに見つけ、実行したとしても、結果的にワーカーの想像をはるかに超える程の良い結果・悪い結果となった場合も、先入観を持っていると、上記と同じ様に比較対象を作ってしまい、クライエントの結果を受け入れられず、クライエントが行った「経過」「努力」をも受け入れる事が難しくなってしまいかねない。


 クライエントは日常生活を送る上で、何かしらの支援が必要だから相談に来る。と言う大前提を忘れないためにも、上記3つの留意点は、ワーカーが常に意識する必要があるのではないだろうか。





自立?

要介護高齢者に限らず、障害者等社会的に支援を必要とする状態であっても、『健常者』と呼ばれる人たちと同じ様に、出来るだけ家庭や地域で普通の生活を送れるよう環境づくりが成されつつある。


 中でも高齢者の自立と言うのは、一般的には『食事・排泄・入浴・歩行・着替え』が支援者の支援を借りずに出来る事と言われているが、『自立』とはそれだけだろうか。と感じる。

例えば、地域で暮らす要介護高齢者が、身体的な部分(食事・入浴・排泄・歩行・着替え)を一人で行え、起床時間は多少バラバラであるが、他者(家族や支援者)の言う通りに動く事が出来る状態(例えば食事・入浴・排泄・散歩・着替えの時間が全て決められており、その通りの生活が出来ている事)を自立と言うならば、ロボットのような感覚さえ感じ取れる。また、常時車椅子使用の高齢者の場合、車椅子を押してもらっている状態では『自立』とは言えない。そうかと言って自分の足で歩ける様になる事により『自立した』と言えるのであろうか。そもそも、要介護高齢者に自立を求める事は相当厳しいのではないだろうか。



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 それであれば、私は『自律』を重要視すべきと考える。
広辞苑で『自律』を調べると『自分の行為を主体的に規制する事。外部からの支配や制御から脱して、自分の立てた規範に従って行動する事』とある。

つまり、自分で希望する事をみつけ、自分でどこまでやるかを考えて行動する事。である。

ロボットのように、決まった時間に入浴・食事・排泄・着替え・散歩を行うより、「今日は天気が良いから、少し遠くまで散歩してみよう。途中の公園でお弁当を食べよう。私は昔から温泉が大好きなので、その帰りに銭湯に寄って来ようかしら」等と自分で計画を立て、出来る範囲(無理の無い範囲)で行動する事が出来る人の方が『自立している』と感じられてしまう。仮に帰り道に疲れてしまい、タクシーで帰宅したとしても、それを『失敗』や、『自立できていない』とは言わないのではないだろうか。

もちろん、生活面での『自律』もあるが、経済面の『自律』もあり、両方が『自律』出来ている人は数少ない。しかし、どちらか片方でも自律出来ていればそれは健常者や私たち中年代にとっては『自立』とは言えないかもしれないが、高齢者にとってみれば、充分『自立』だと考えても良いのではないだろうか。
 


現在、せっかく健常者と呼ばれる人たちと同様に、出来るだけ家庭や地域で普通の生活を送れるよう環境づくりがされているのである。だからこそ、要介護高齢者にも「自分の希望する事や好きな事を見つけ、最後の瞬間までその人らしく生きていく」と言う事が、最終的には自立(自律)であり、支援者はその人に『情報提供』を重要する事を真剣に考えなければならないと考える。



プロフィール

幽希

Author:幽希
無資格主義の管理人が日々の仕事で感じる事を綴ります。
主に障害分野です。
相談援助・介護の話がメインかな。

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